人工光と幻 Artificial Light and Phantom 2023

2023.9.27-10.29 @ hiromart gallery tokyo

すべて新作での展示です。発表にあたり、作品にまつわるエッセイを公開します。

画像が公開され次第エッセイも追加される予定です。


職務質問されるかもなぁ...…と思いつつ、夜中に散歩に出ることがある。暗い中ブラブラ歩き回ると、昼間は見られないような光景に出会う。
側溝の穴からこちらを見ているテン、ネコのエサを漁るタヌキ、神様みたいな野犬、銀行のベンチに座ってボーッとしている婆ちゃん、数人にボコボコにされている男、3000円で売春している婆ちゃん。書き連ねると現実味が薄れるが、別府に住んでいるとちょこちょこヘンなもんに遭遇する。ヘンなもんとは言っても、山から海が近く動物が多い、お年寄りが多く、繁華街は治安が悪い。説明がつく程度のことだ。
アーティスト・イン・レジデンスっていう、現地制作みたいなやつで別府に来たけど、思ったような雰囲気じゃなかった。ちょっと陰湿な雰囲気があんま好きじゃなかった。諸々割愛するが、わたしは絵を描きに来ただけなのになー、と思った。
今回ヒロマート・ギャラリーの西山さんから個展の話をいただき、年初からぼんやりとあたためていた企画とステートメントを提案した。
この展示に関して簡潔にまとめるとこの文章になる。
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わたしは絵を描くために大分県に来た。どこにいてもそうだが、住んでいるといいことばかりではない。人間の嫌なところもたくさん見る。わたしたちは、人間に対して嫌悪感を持ち飽き飽きしても、夜になると誰かが作った光に照らされることになる。間接的にも人と関わるということが文明の中で生きることだと思う。
ミメーシスという概念がある。人間はなにかのマネをしたがる生き物らしい。人工光も月や火を模した表現のひとつかもしれない。人工光という自然の模造品と、未知の世界を多層的に描く。
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困難な経験を経て、作品を作るという行為自体について考える機会にもなった。
レジデンスを出た後、トラブルで家をなくして友人の家に泊まったり、寮付きの派遣で働いたり、治安の悪い地域に住んで、自分自身食うに困っているのに美術なんて何の役にも立たないと実感した。お腹が空きすぎるとそんな余裕はないのだ。
そんな生活で、持ち物も全て失って、何故まだ絵を描くのか?当時100円ショップで買ったコピー用紙に適当なペンで絵を描いていたが、描きながらずっと疑問だった。(当時の作品はくねくね百景としてまとめてあります)
描いたものにも、描くという行為にも何の意味もない気もした。
お金がなくても散歩することは出来たので、麦茶を持ってやたらとウロウロした。夜中に遭遇する自動販売機の光や煌々としたコンビニの灯りはとても鮮やかで美しく見えた。暗い田舎道を歩いている時に灯りを見ると、安心する。
貧しく苦しい生活の中で絵を描くことは、夜中に見る光と似ているかもしれない。と、今は思う。
生命の維持に必要のない「描く」という行為が、回りくどく自分を生かしたと思う。


『遭遇』

わたしは釣りに行くことがある。
ここに描かれている浜脇漁港は湾奥の静かな場所で、生き物を観察するには人目も気にならず好きな場所だ。
子供の頃に小魚やオタマジャクシ、カタツムリ、イナゴなどを捕まえていた人間も、大人になるにつれそういうことをしなくなる。そういうことをしないのが正常な人間であるという感じがする。わたしも正常な人間であろうとした。
しかし、生き物が嫌いになったわけではない。得た知識も失わなかった。図書室で苦手な生き物の図鑑を"わざわざ"読み続けた子供はずっと自分と一緒にいると思う。
30代なかばになり「好きなように勝手に生きたらいい」と思うに至るが、若い時は異物になりたくなかった。他人から変な人だと思われたくなかった。好きなものや考え方を隠すようになっていった。
隠し、押し殺してきたものを今改めて発見することが、過去の「葛藤を抱えた自分」への救いになるのかもな、と思う。


『目を見てはならぬ』

2ちゃんねる(現5ちゃんねる)オカルト板に『死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?』という長寿スレッドがあるのを知っている人も多いと思う。
わたしは学校の怪談、新耳袋、洒落怖と、実話か創作かを問わず面白ければいいというノリが好きだ。
ここに描かれているのは『めかぁねこ』という話に出てくる猫の化け物(?)だ。
目を見たら失明してしまうということなので、話の中でも目を見ないように俯いて斜めに見る、という描写がある。目が緑に光るでかい猫らしい。
「ちゃんと見てはいないけど存在はしていて、害がある(友達は被害にあった)」という不確かさと、「古くから伝説がある」というネット怪談によくある感じが趣深いと思う。
インターネット上で発表される怪談は、話が派生していくミーム的な要素があるのも面白い。
今回の展示で発表する『水飲み場の部屋』という作品も「The Backrooms」というミーム・クリーピーパスタから着想を得た。そちらも見に来ていただけるといいなと思います。


『本当のトモダチ』

わたしたちは様々な場面で何かの役を引き受け、それを演じている。義務ではないが、皆がそうしているから自分もそれに倣う。
人生の分岐点で他の皆が何を選ぶのか、よく見て参考にしなければならない。それがフツーってやつっぽい。
モデルをやってくれた方は見た感じフツーっぽい選択を続けているおじさんなんだが、可愛いものが好きでファンシーなところがある。
たぶん皆、多かれ少なかれフワフワした部分を隠して大人の役をやっている。
テレビから出てきた謎のキャラクターは、本人が描いたイラストを一部使わせてもらった。
こちらの関連作品に『一族の印』『トモダチが来た』の2点があります。会場で見ることが出来ます。


『生活のとなり』

『人工光と幻』というテーマについて実際に手を動かす作業に入る前に、数ヶ月間考え事をしていた。キーワードすべての定義を調べ、参考文献を読み、都度メモを取った。わたしはこういう無意味な遊びみたいなことをどんな時もずーーーーーーっとやっている。90%くらいは何にもならない。
今回幻の表現についてもかなり考えたのだが、大体何をやってもベタな感じになるし、リアルな表現も下手したら昔の精神薬の広告みたいになりそうだし、バランスが難しいと思った。
(参考:精神科薬広告図像集 http://psychodoc.eek.jp/abare/gallery/
この作品『生活のとなり』と、関連作品『核』に関しては、モニター越し、鏡越しにだけ何かが映り込むという一種古典的な表現を採用した。恐怖の演出のようでもあるが、あくまで現実の彼女と幻は次元の違う存在であるという線引きをする意図もあった。
この二作でモデルをやってくれた女性は若者なので、未確定でフワフワした部分を幻として描いている。


『詩』

わたしは別府に住んでから疑問に思っていることがあるんだが、大衆的なものに限定した話ではなく、我々自称アーティストへの評価は「作品よりキャラクター(または作者のビジュアル)」なのか?
人当たりがいいとか容姿が整っていると受け入れられ方が全然ちゃうやん?というのを何度も目の当たりにした。クソが死ね!と思う。(頭がおかしくても可愛ければいいと言う人までいた)
しかし、ここにおいては「お前の作品がクソでお前がブスでキチガイだから受け入れられんだけやん、はい論破」とあしらわれて終了なのだ。
ムカつきすぎてずっと九相図を見ていた時期もある。
我々はそのうち死にます。人間関係も失われます。残るのはなにか?作品だけです。って思う。

この5年間、何度もこの全てが破壊されればいいのに、と思っていた。
しかし、わたしもそこそこ生きてきたオトナなので、現実に破壊活動をしたら関係ない人に迷惑がかかり、テロリストとして捕まって世のヘイトを買い、司法にブチ殺されてしまうのを理解している。なにそれ?コスパ悪いじゃん。

そもそも何に憤っているのかといえば、このゲスな「雰囲気」に対してなので、雰囲気ってどうやって破壊するわけ???もうめんどくさいから怒りの力で別府公園に穴でも開けよう、というのがこの絵の始まりだった。
後に思い出したのだが、別府公園の辺りは元々進駐軍関係の施設があった場所で、地下に長大なトンネルがあるらしい。なんだかロマンがある。
このあたりの話は調べたらすぐ出てくると思うんで、興味ある人は調べてみてください。

疑問や憤りやこの状況、小さな社会から大きな社会まで、「すごく大きな詩みたい」と思った夜があった。受け入れ難いものを受け入れようとする時、理解の及ばぬものを理解しようとする時ってちょっとこういう感覚になることがありませんか。。


『探しものがある』

この絵でモデルをやってくれた人は1つの名前をレモンさん(Lemon-2℃)といい、去年けんしん美術展に出した作品でもモデルをやってくれた人です。
こだわりのあるセレクトショップで働いていたきれいめな人なのに、めっちゃ変な人だった。変な絵を描いているのでちょっかい出していろいろ見せてもらった。個人的に彼女はけっこう珍しい天才型の人間だと思う。中二病的に言うなら自分の能力をコントロールできてない暴走系能力者だと思う。能力の暴走で村を焼き払ったりしてそう。
いつも夜のコンビニか、このキッチンでバカスカタバコを吸いながら変な話をした。わたしたちは時代に取り残されたヘビースモーカーだった。
何を話していたのか、精神とか世間とか、何が美しくて何が汚いか、そんなに中身のある話はしなかったと思う。ただなにか探しものがあったのだと思う。
彼女はこの夏引っ越したので今この町にいない。何も見つからなくても抜け出しただけ勝ちだと思った。

何かを探すというのはただ闇雲に行動することではない。と思う。人間は体が起きていてもほとんど寝ているようなものだ。本当の意味で目が開いていない。自分で考えて自分だけの屁理屈を捏ねられる人は多くないと思う。
わたしはこのキッチンで話しながら希少ななにかの破片をいくつか見つけたと思う。この世は冷たい砂漠で、ほとんど大体ただの砂だからなにかの破片はレアモノだ。
死なない限りずっと探しものをしているだろう。それってちょっと悲しいような虚しいような気がするけど、知的生命体の性のようなものだろうなーーーーー。っていう絵。思考する生き物は孤独だぜ?

ちなみにUFOとファージ型のものが描かれていますが、これはレモンさんとわたしが全く別のタイミング、別の文脈で作成したアルミホイル製のオブジェです。

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